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Last Update : 2004/02/29

■ユーロビートが生まれるまで (DiscoサウンドからHi-NRGへの発展)

1960年代、アメリカでは黒人を中心とした、ソウルミュージックが席巻しました。
バーやクラブでは、Juke Boxや、生バンドにあわせて踊る人が多数… そう、これがDiscoの原型ですね。

1970年代に入ると、DJがレコードを回し、お客さんが踊るという、「Disco」のスタイルがNYで人気になります。
もちろん、そこでかかっていたのは、言うまでもなく前述のとおりソウルミュージックです。
が、そこには「ダンスミュージック」という概念はなく、街中で流行の音がそのままDiscoでも流行していました。
しかし、1970年代の中頃、その立場は逆転します。
つまり、Discoからヒット曲が生まれ、街中へと広がっていったわけですね。
そこで、Discoが一躍脚光を浴びることとなったのです。

そして1974年4月10日、あの「Billboard」誌に「Disco Chart(TOP40)」が出来ます。
そこで、1975年あたりから、「Disco向け」の曲(いわゆる「ダンスミュージック」)が、
アメリカ・ヨーロッパを問わず次々とリリースされる様になりました。
そのブームにのって登場したのが、Hi-NRGの前身とも言える「ミュンヘンサウンド」(@西独)です。
Silver ConventionやDonna Summer、Bonny M.あたりが有名ですね。
この「ミュンヘンサウンド」の特徴は、独特な縦のノリと電子的なサウンドスタイルです。
つまりは、後にHi-NRGに受け継がれ、その後、現在のユーロビートにまで至るスタイルです。

「ミュンヘンサウンド」を中心としたダンスミュージックがアメリカで受けるようになると、
ヨーロッパ産の曲は、やはり地元ヨーロッパでも受けるわけです。
そして世界中にその波は広がっていったわけですが、1970年代の終わり頃のアメリカでは、
「ヨーロッパの曲だけヒットしていてずるい!」といった声が相次ぎ(笑)、
落ちこんでいたソウルミュージックの波が再び盛り返し、アメリカでは黒人中心のスタイルに徐々に移行。
その一方で、アメリカのゲイクラブ、ゲイディスコでは、
ミュンヘンサウンドなどのDiscoミュージックの発展形であるHi-NRGがブームになります。

1980年代に入ってもヨーロッパではDiscoミュージックが世の中を席巻。
Rockの楽曲の中にも、Discoテイストのものが多くリリースされる様になります。
そして、アメリカのUndergroundな世界でブームとなっていたHi-NRGが、イギリスや西独にも飛び火し、
ヨーロッパのDiscoは、「DiscoテイストのUK-Rock」を中心に流す店と、
前述の「Hi-NRG」を中心に流す店の2パターンに分かれます。
そこでイギリスの「Records Millor」誌は、後者用に、「Boys Town Chart」を掲載しはじめます。

1984年2月4日付けのチャートから、「Boys Town Chart」は「Hi-NRG Chart」へと名称を変更。
このあたりから、Hi-NRGという名前が一般化していきます。
当然日本でもHi-NRGが大ブームになり、「Eat You Up / Angie Gold」を荻野目洋子がカバーしたのをはじめ、
J-EUROの原点とも言える、「Hi-NRGのカバー」が流行したのは言うまでもありません。
そして1985年10月25日、日本初の「Hi-NRG」コンピアルバム「That's Hi-NRG」がAlfa社からリリース。
このシリーズとともに、Hi-NRGのブームはさらに加速するかと思われた矢先、
イギリスの「Record Miller」誌はその年の12月7日付けチャートから、
なんとその「Hi-NRG Chart」を「EUROBEAT Chart」へと勝手に名称変更してしまいます。
ここで初めて「ユーロビート」という言葉が生まれたわけです。ここ要チェック!
流行に敏感な(笑)Alfa社は、「That's Hi-NRG」の後継コンピとして「That's Eurobeat」シリーズを発売開始。
かねてからのブームということもあり、LP・CDともに好調な売上を記録し、
「ユーロビート」という言葉は、ここから日本人に使われるようになり、定着しました。
しかし、またしても「Record Miller」誌はやってくれました。
なんと、1987年6月6日付けチャートから「EUROBEAT Chart」を「Hi-NRG Chart」戻してしまいます(汗。
振り回されたAlfa社は悩みます。「That's」の後を「Hi-NRG」に戻すか、「Eurobeat」のままにするか…。
結論としては後者で、「That's Eurobeat」シリーズは、その後44作続く大ヒットコンピレーションに成長しました。

■That's Eurobeat絶頂期 (Hi-NRGからユーロビートへの分岐)

さて、ここからがユーロビートの歴史の本編になりますね。

「That's Eurobeat」シリーズは、M.Farina(イタリア)の作品を中心に収録していったわけですが、
「ユーロビート」という音楽ジャンルが確立された時点では、必ずしもイタリア産だけではありませんでした。
前述のとおり、「ユーロビート」の前身である「Hi-NRG」サウンドは、
アメリカやイギリスのゲイクラブからメジャー化していったものですから、
SylvesterやPatrick Cowleyを排出したSan Franciscoの「MEGATONE Records」を中心としたアメリカ産や、
Dead or AliveやKylie Minogueのプロデューサー=Stock/Aitken/Watermanの「PWL」レーベル
を中心としたイギリス産(どちらかというとポップより)も存在しました。
それ以外にも、Samantha Gillesを生んだプロデューサーFonny De Wulfなどのベルギー産など、
とにかくいろんな国で制作されました。

時を同じくして1986年10月、日本ではPony Canyonも新しいユーロビートコンピCDを制作し始めます。
それが「Eurobeat Fantasy」シリーズです。
ベルギーのF.De Wulfの楽曲と、イタリアのM.Farinaの楽曲を中心に収録し、
Alfa社の「That's Eurobeat」と同様に、ヒットします。
また、Victorも1987年12月に「Best Disco」というコンピを発表。
名前のとおりDiscoヒットを集めたコンピですが、この当時日本のDiscoでヒットしている曲といえば、
まさしく「ユーロビート」や「Hi-NRG」であり、実質的にはDiscoというよりも「ユーロビート」のコンピCDです。

しかし、前述のとおり、1987年に「Record Millor」誌の「Eurobeat Chart」が「Hi-NRG Chart」に戻されると、
「ユーロビート」や「Hi-NRG」の世界的なブームは終わり、
さらにその延長線上の、「DiscoテイストなPOPサウンド」がブームになります。
アメリカにおいては、そこそこヒットしたとは言えども、いかんせんマイナーなジャンルであったため、
Run DMCなどのブラックミュージックが世を席巻するようになり、
イギリスの「PWL」が織り成すサウンドは、「ユーロビート」という一つのジャンルを超え、
もはや一般的なPOPミュージックとなりました。
MadonnaやMichael Jacksonのサウンドのように、多くのDiscoテイストの楽曲がPOPサウンドへと変化しました。

それでは、VOL.44まで長く続いた「That's Eurobeat」シリーズに収録された、
日本でいういわゆる「ユーロビート」とはどういったものなのでしょうか?
それは、ユーロビートのブーム終焉後の主流となったDiscoテイストのPOPサウンドではなく、
「あくまでもDisco向けに作られた」楽曲です。
日本のレコード会社は当時、ブーム後も「あくまでもDisco向けに作られた」楽曲を作りつづけ、
イタリアのPWLとも言われた FCF(Farina - Crivellente - Fadinger)の楽曲に目をつけはじめます。
彼らは当初、イタリアの大手レコード会社Discomagic傘下の「TIME Records」に在籍し、
「Eurobeat Fantasy」や「Best Disco」に「CRAZY FOR YOU / VANESSA」などのヒット曲を提供。
と同時に、日本で確固たる地位を確立していきました。
彼らのサウンドは、初期の「PWL」(イギリス)が制作していたような、日本人の感覚に合ったサウンドであり、
PWLの楽曲とともに、密かに日本で人気が出始めてきたサウンドスタイルでした。
それは、石井明美の「CHA CHA CHA」(オリジナル=「CHA CHA CHA / FINZI KONTINI」)や、
「GIVE ME UP / MICHAEL FORTUNATI」などのスタイルです。
(ちなみに、前者はItaly産、後者はベルギー産です。)

さて、前述のFCFが「That's Eurobeat」シリーズへ本格的に曲提供をはじめると、
彼らは今までヒットを飛ばしてきた「TIME Records」を離脱し、あくまで独自に、日本向けに、
中堅出版社Ala Bianca傘下の「FLEA」レーベルへの曲提供を開始します。
もちろん、そのころには世界的な「ユーロビート」ブームも完全に終焉を迎えており、
世界的にみても、「ユーロビート」制作に携わる人間はごくわずかとなっていました。
しかし、彼らはその「FLEA」で、あの「UPSIDE DOWN / COO COO」や、
今でも人気の高い「BOOM BOOM DOLLAR / KING KONG & D.JUNGLE GIRLS」を制作。
当時バブル絶頂期で、高級Discoの開店も相次いだ日本で大ヒットを収めます。
そう、日本では依然として「ユーロビート」がブームだったのです。1989年のことです。
その後、彼らは新しい境地を切り開くため、「FLEA」を離脱し、自分たちで「ASIA Records」を立ち上げます。
もちろん彼らの楽曲は引き続いて「That's Eurobeat」シリーズに提供され、
「GUNFIRE / MARK FARINA」や「JAPAN JAPAN / ALPHATOWN」などヒット曲を生み出し、
世の一般人までも巻き込んで「ユーロビートといえばThat's」という方程式を確立させました。
ここでAlfa社は、彼らの「ASIA Records」と、ほぼ独占的な契約を結びます。

■SUPER EUROBEATの誕生 (主流はMark FarinaからDave Rodgersへ)

FCFが抜けた「TIME Records」においてその後「ユーロビート」制作の中心人物となったのは、
1986年に「FLY TO ME / ALEPH」で大ヒットを収めた、Giancarlo Pasquini(Dave Rodgers)でした。
現在でも大活躍中の彼は、FCFの抜けた穴を埋めるかのように、次々とヒット曲を制作していきます。
彼の楽曲は、FCFがAlfa社と独占契約を結んだことにより楽曲がなくなった「Eurobeat Fantasy」や
「Best Disco」に引き続き提供され、好評を博します。
また、同じDiscomagic傘下の「Hi-Energy Records」などにも曲を提供していきました。
ここに、「FLEA」〜「ASIA」のFCFと、「TIME」のPasquiniというユーロビート作家の2本柱が完成しました。
しかし、社内のいざこざから彼は、M.Farinaが抜けた「FLEA」へと移籍してしまいます。1990年です。

またこれと平行して、80年代中盤からHi-NRG制作にあたっていた、Gino CariaとSandro Olivaのコンビが、
「TIME」への曲提供を中心に据えます。まぁ、彼らは「TIME」設立当初からいたメンバーではありましたが、
FCFの勢いに押され、中心人物として曲提供をしていたわけではありませんでした。
が、彼らの曲センスはすばらしいものがあり、ある意味FCFよりもいい曲を制作していたのは事実です。

その後の「TIME」を取り仕切ることとなったのが、FCFの裏で、実質的な制作活動をしていたL.Gelmettiです。
彼は、ほとんどのFCFの楽曲に絡んでおり、事実上の製作者と言っても過言ではないほどの実力者です。
90年のFCF全盛期まで彼らについていたGelmettiでしたが、
「TIME」から超優遇的なオファーを受けると、FCFの製作チームから離脱。
「TIME」の看板producerとして、一旗あげることになりました。
GelmettiのいなくなったFCFは「FCF」レーベルを設立するも、Gelmettiの抜けた影響は大きく、イマイチでした。
Gelmettiは「TIME」を自らの力が一番発揮できるレーベルだと考え、精力的に曲をリリースしていきます。
そして、どれもこれもが大ヒット。このころから「TIME」全盛期が始まります。
このころが、いわゆる「第1次パラパラブーム」ですね。

「FLEA」に移籍したPasquiniは、移籍とほぼ時を同じくして、「A-BEAT C」レーベルを設立。
DiscomagicでA&Rとして働いていたA.Continiが、交渉に来ていた@社と引き合わせたのが始まりでした。
Sandro OlivaやGino Cariaも加わり、また古くからの知人たちをフル動員してスタートした「A-BEAT C」は、
当時はまだまったくの無名レコード会社だった@社と10年間という大変長い独占契約をします。
数十曲を提供したあと「FLEA」を抜けた彼は、全制作力を「A-BEAT C」に傾けます。
納得のいく楽曲をいくつか制作し、@社に提供。
そして1990年の末、@社は「A-BEAT C」を中心レーベルとした「SUPER EUROBEAT VOL.9」をリリース。
@社の懸命のプロモーションのおかげもあり、収録楽曲とともに大ヒットを記録します。
これが、@社と「A-BEAT C」のサクセスストーリーのはじまりでもありました。

■SUPER EUROBEATの隆盛 (@社とSEBの執念)

Pasquiniが抜けたあとの「FLEA」を支えたのは、Sergio Dall'Oraを中心とする「Havana Productions」でした。
彼らは「FLEA」に曲提供をするかたわら、ヒットを連発していた「TIME」にも精力的に曲提供をしていきます。
日本でのCD収録環境に恵まれなくなった「FLEA」の曲は、一部を除いてあまり話題にもなりませんでした。
「BIG SAMURAI / ROBOT MAN」や「COME ON COME ON / DONNA LUNA」などは大ヒットしましたが、
それ以外の曲は、どれもパッとしたレスポンスを伺うまでには至りませんでした。
そして92年、「Havana Productions」が収録環境に恵まれた「TIME」への曲提供一本に切り替えます。
後継者がいなくなった「FLEA」は制作をストップせざるを得ない状況となりました。

さて、ほとんどの「FCF」レーベルの曲と、一部の「TIME」の曲を収録していた「That's Eurobeat」ですが、
FCFの低迷と@社の「SUPER EUROBEAT」の成功により、91年の後半になると、売上が急降下します。
@社は、「Best Disco」や「Eurobeat Fantasy」のシリーズ終了により収録先がなくなった「TIME」楽曲を、
SEBシリーズの2枚看板のうちの一つとすべく、大量のプロモーションを含んだ契約を「TIME」と交わします。
つまり、ここで「A-BEAT C」と「TIME」のユーロビート戦争が勃発。
すなわち、クオリティの高い曲が多くSEBに収録されることであり、良い意味での争いが本格化します。

その頃の「TIME」には、敏腕プロデューサーL.GelmettiとヴォーカリストのClara Moroniのコンビ、
前述のGino Cariaと「Havana Productions」、そしてもうひとつ、
Claudio Accationoを中心とする「Live Music」が曲提供をしていました。
彼らは、Gelmettiと同様、FCFの裏方として実質的なFCF全盛期を支えた集団でした。
彼らもまた、Gelmetti同様、FCFの制作チームから離脱し、
Gelmettiとのコラボレーションで「TIME」を盛り上げていきました。

クオリティの高い曲が多数排出されたのに対し、この頃の日本では、
ジュリアナ東京を中心として、ハイパーテクノが大ブームとなっていました。
ユーロビートはテクノのブームに押され、あまり日の目をみることがありませんでしたが、
そんなことにはめげず、「TIME」「A-BEAT」両レーベルは精力的に楽曲を制作していきます。

テクノがブームになる前、イタロハウスがブームとなっていました。
言ってみれば、イタロハウスは、ジュリアナテクノの前身のようなものですが、それを作っていたのは、
かつてユーロビートがHi-NRGと呼ばれていた頃に、Hi-NRGを作っていた人たちなのでした。
それは、ユーロビートのマーケットがほとんど日本だけになり、世界的なヒットを狙う彼らにとっては、
あまり都合のいいことではなかったからでしょう。

さて、93年も終わりになると、ジュリアナからお立ち台が消え、テクノブームが落ち着きを見せます。
ここぞとばかりにユーロビートは息を吹き返し、94年になると、ユーロビートがふたたびブームとなりました。
ここでの主役は、当然「TIME」「A-BEAT C」のSEB収録両レーベルであり、
91年から影で続いてきた戦争がついに実を結ぶ形となります。
94年の夏を境に、ブームは完全にユーロビートに移行。「第2次パラパラブーム」がはじまります。

■メジャー化と大ブーム (多レーベル時代への突入)

しかし、この頃から、制作サイドでは少しずつ動きを見せるようになりました。
まず、「TIME」を引っ張ってきたGelmettiが、突然ユーロビート制作をストップします。
彼は、同じイタリア国内のダンスミュージックレーベルである、「MEDIA」に武者修行に出向きます。
そして、同じく「TIME」に曲提供をしていた「Live Music」が独立。
イタリア国内中堅出版社のDig It社の傘下レーベルとして、「Hi-NRG Attack」レーベルを設立します。
また、今まで「A-Beat C」でPasquiniの右腕として活躍していたBratt Sinclaireが、
自らのスタジオ「Maverick Studio」を作り、Pasquiniと距離を置くようになると同時に、
独特な音で人気を博していきます。

95年3月、@社は新シリーズ「EUROBEAT FLASH」を発売します。
94年にシリーズが終了したAlfa社の「That's Eurobeat」に収録されていた「TIME」の楽曲の版権を獲得。
これをそのまま引継ぎ、さらに独立した「Hi-NRG Attack」の楽曲をも収録していきました。
そして、ユーロビート制作を一時ストップしていたFCFも、新レーベル「BOOM BOOM BEAT」を設立。
現代のニーズにあった、ユーロビート楽曲を制作し、「EUROBEAT FLASH」シリーズに参加しました。

この頃になると、制作陣のレーベル移動が活発化します。
「MEDIA」への武者修行を終えたGelmettiは、かつてのレーベルメイトのヴォーカリストClara Moroniと、
「A-BEAT C」の豪腕プロデューサーSinclaireを引き連れて「DELTA」レーベルを設立。
「TIME」「A-BEAT C」の有力製作者を一気に引き抜いた「DELTA」は、期待の通り大ヒットを連発します。
また、80年代から「TIME」にいたGino Cariaとその一派が「TIME」を離脱。
これも中堅出版社のLoredana Edizioni Musicali傘下に「VIBRATION」レーベルを設立しました。
これで2年前まで2つしかなかったレーベルは、一気に6レーベルに増加。
レーベルごとにカラーが異なり、Eurobeatのバリエーションが一気に増加しました。
96年になると、「EUROBEAT FLASH」シリーズは、
「TIME」「Hi-NRG Attack」「VIBRATION」「BOOM BOOM BEAT」の4レーベルを、
「SUPER EUROBEAT」シリーズは、「TIME」「A-BEAT C」「DELTA」の3レーベルを収録しました。

しかし、この製作者大移動のあおりを一番受けたのが「TIME」でした。
Gelmetti、Moroni、Cariaと中心製作者が抜けたのは大きな痛手で、残るプロデューサーは、
Sergio Dall'Ora一人となってしまいました。
そこで、「A-BEAT C」でわりと活躍していたLuca Pernici一派をプロデューサー待遇で引き抜き、
さらに、今まで裏方として活躍していた、Di Marcantonioをプロデューサーに昇格させます。
これで何とかクオリティの高い曲のリリースに耐えられましたが、
やはりGelmettiやCariaの抜けた穴を、完全には埋めるまでにはいきませんでした。
これ以降、「TIME」は初の低迷期を迎えます。

「A-BEAT C」は、Pasquiniの強力なリーダーシップの元、
以前と変わらない、高いクオリティの曲を制作していきます。
「DELTA」は、「TIME」「A-BEAT C」の良い所を抜き取ったような形で、大ヒット曲を連発します。
「Hi-NRG Attack」は、独自のカラーを前面に押し出した曲で、 対象問わず受ける曲を制作し続けます。
しかし「VIBRATION」は、レーベル設立1年にして、早くも急激な変化に見舞われます。
96年末、すでに病床についていたGino Cariaとともに、
事実上「VIBRATION」を支えたCastagna/Somenzi夫妻が離脱。
「A-BEAT C」傘下の「DOUBLE」レーベルで、楽曲制作をスタートさせました。
97年春には、Gino Cariaが癌のため亡くなり、「VIBRATION」は存続の危機に立たされます。
当初からCariaをサポートし続けた、Alberto FerrarisとD.Di Marcantonio、社長のLuigi Stangaによって、
その後1年間は制作し続けましたが、98年、敢え無く制作を一時終了させます…

98年、「DELTA」からの大ヒット曲「NIGHT OF FIRE」により、「第3次パラパラブーム」が勃発。
今までのブームとは異なり、日本国民、老若男女全てを巻き込んだ大ブームへと発展します。
99年には、「SUPER EUROBEAT」がシリーズ100作目を記録。現在もシリーズが続いています。
さらに翌年、@社とDisneyとの契約が成立し、 Disneyとパラパラを融合させた取り組みがなされました。
また、Victor社が「Euro Panic!」なるコンピレーションシリーズを発売開始。
今まで@社と契約していた「BOOM BOOM BEAT」と、元TIMEのD.Di Marcantonioの曲を中心に、
ヒット曲を飛ばします。

そして2001年、一旦はレーベルを閉じた「VIBRATION」が、D.Di MarcantonioとL.Stangaによって復活。
Eurobeat黄金時代がやってきました…